「この前海外から問い合わせが来てね」と師匠。
なんでもWEBサイトに掲載している古武術の動画を見てのことらしい。いやはやすごい時代になったものだ。
その彼も武術を、しかも我々と同じ流派の柔術を学んでいるらしく、動画検索していたら師匠の武術会にたどり着いたのだという。
「自分はあなたと同じ柔術を学んでいると思うのだが、どうも風格や細かい点が違う。そこのところを知りたい」
ということで、根掘り葉掘りの質問メールが届く
↓
師匠が答える
↓
「では○○が××なのはどういうことか」というメールがまた届く
「なかなか面倒くさい」
「でも師匠、律儀に答えましたね。でやり取りは今でも?」
彼「やはり自分のとは違う。自分は佐藤センセイの系統なのだが・・・」
師匠「違うと言われても、私はその佐藤先生から直接学んだので・・・」
彼「・・・」
「それからメールが来ないんだよね」
彼がどのような修業をしているのかは知らない。しかし、
“もしかしたら自分の学んでいる武術はニセモノなのではないか”
“もしかしたら自分の修業は間違っているのではないか”
という疑念にとらわれてしまったのかもしれない。
「過ちては改むるに憚ること勿れ」と『論語』は説く
(この場合は別に過失ではないが)。
自分が間違った道の上にいることに気がついたなら路線変更は早いに越したことはない。
が、今まで費やしたエネルギー、時間、リソースのことを考えると現実に向き合うのはなかなかタフな作業だ。
「正しい道」を詳しく知るのを避ける、という方法だって取れる。そうすれば自分が変化する理由がなくなるから。
たとえ良い方向であっても人間にとって変化はストレスである。
それでも私たちは知っている。避けたところで頭のどこかにある想い
「私は知ることを避けている」。
先ほど孔子をひいたので今度は老子にご登場願おう。
「まさにこれをちぢめんと欲すれば、必ずしばらくこれを張れ。
まさにこれを弱めんと欲すれば、必ずこれを強くせよ」
何かを縮めようと思うなら、まずそれをいっぱいに広げるとよい。
何かを弱めようと思うなら、まずそれをいっぱいに強めるとよい。
逆もまた真なり。
何かを広げたければまず縮め、何かを強めようと思ったらまず弱めるというのはどうか。
新しいものを入れるには新しいスペースが必要だ。
いったん荷物を降ろさなくてはならないかもしれない。
スクラップアンドビルド――新しい自分になるために今までの自分をいったん壊さざるを得ないときもあるだろう。
そうこうしている内に入れ物自体が大きくなっていることに気づく。
私たちは皆そうやって成長してきたはずだ。
だから、彼はどうするのかなと思っていたところへ後日談。
「例の彼からまた質問メールが来たんだよ」
どうやら彼は学び、求め、成長する者だったようだ。遠い異国の地で外国の文化を学ぶ彼に幸あれよかし。