ペルシア帝国の王、ダレイオス一世は側近のギリシャ人に訊いた。
「いくら金をもらったら死んだ父親の肉を食べるか?」。
そのギリシャ人は「いくらもらおうがそのようなことをするつもりはない」と答えた。
ギリシャでは故人を火葬にする風習だったからだ。
ダレイオス一世はそのギリシャ人を立ち会わせて、今度はカッラティアイ人に訊いた。
「いくら金をもらったら死んだ父親を火葬にするか?」。
死んだ両親の肉を食う風習のあるカッラティアイ人は大声で答えた。
「王よ、口を慎んでもらいたい!」。
いまならさしずめ、ダレイオス一世はギリシャ人に向かって片眉を吊り上げ、『な?』とでも言わんばかりの表情を見せるシーンだろう。
ヘロドトスの『歴史』に引用されるエピソード。言わんとするところは、
「習慣こそすべての王」
である。
人と人とが向き合う時、それは一つの世界と一つの世界が向き合っているということと同義である。
ある人にとって大切なことが他の人にとってはどうでも良かったり、ある人にとってどうでも良いことが他の人にとってかけがえのないものとなる。そんな当たり前のことに気づかせてくれる名エピソードだと思う。
信念は習慣を作り出し、習慣は信念を補強する。
信念についてつらつら書いてきたが、かいつまむとこういうことなのだろう。
さて。
かつて弊社の近くにうまいうどん屋さんがあった。
看板メニューは「肉汁うどん」。具材は豚肉とねぎと油揚げのみの無骨なだし汁に、別皿に盛られたこしのある太打ちうどんをつけていただく。
普通盛り、中盛り、大盛りの値段が一緒というのもうれしい。私はいつも中盛りだった。実際盛況だったのだがなぜ撤退してしまったのか・・・。
おいておいて。
ある日、カウンターでいつものように中盛りを食していると、隣の席に座った男性が普通盛りを注文した。ほどなく出された普通盛りを前に男性がつぶやく。
「中盛りでもよかったか……」
確かに大食いの男性にとって普通盛りは少し物足りない量と言える。が、その男性は気を取り直したように七味の筒を手に取り、だし汁めがけてさっさっさっさっさっさっさっs
待て待て! 多すぎないか!?
止まらない。
止まらない。
まだ止まらない。
長い5秒が過ぎた。
まだ止まらない。
止まった。7秒後であった。
思わず夢枕獏センセイ調になってしまうほどの七味っぷり!
先の「中盛りでもよかったか……」発言から男性がこの店の一見さんであることは明らかだ。それなのにだし汁の具合を確かめることなく七味をフルスロットルとは……。
「うどんには七味をしこたまぶっかけたほうがうまい」という信念。
それによって形成された「うどんには七味をしこたまぶっかける」という習慣。
その無批判な行為によって、あの肉汁うどんの深みのある味わいは粉砕されてしまった。
まるで別府温泉血の池地獄の様になってしまった男性のだし汁を横目に、私はダレイオス一世の『な?』という得意気な顔を思い出していた。会ったことはないが。
今回の私の結論。